会山行紀行文 10.10.2日(土)
晴れ
(創立35周年記念登山)  
銀の道・1236m
参加者20名
(男7・女13)
1699 M/K

≪コースタイム≫  
 新潟駅南口6:00=小出IC=駒の湯登山
口7:50−登山口発8:05〜三合目楢の木8:40〜
 六合
目中ノ水9:30〜九合目日本坂10:30〜明神峠山頂10:40ー10:50〜九合目問屋場(昼食)
 10:58−11
:50〜七合目焼山12:02〜三合目オリソ12:55〜開高健の碑13:15〜
 一合目石抱登山口13:17−13:3
0=白銀の湯(入浴)13:40−14:30=シルバーライ
 =新潟駅南口16:40

 今日・明日と会の創立35周年記念登山が行われる。数ある山行コースの中で私が参加するのは「銀の道」だ。
なぜこのコースに申し込んだかというと、山道を歩きながら何度か「越後駒ヶ岳」が良く見える展望の良い場所があると聞いたからである。
越後の名山「越後駒ヶ岳」は良く聞く名前だが、残念なことにまだ一度も登ったことがないのだ。せめて間近に眺めることが出来れば良いなあと申し込んでみた。
【銀の道とは】
 平安末期、長寛元年(1163)尾瀬三郎房利郷が京を追われ、尾瀬へ逃げ延びた道としての伝説を持っている。それから約五百年後、銀山が発見され、銀を運ぶ唯一の道であった。銀山最盛期には、一万数千人が行き来し、人馬の絶えることがなかったという。
 人の汗、馬の汗、そして遊女の涙・・・さまざまな人間模様が刻まれ、どれほどの汗や涙を吸ったことだろうか。
 登り口は、口留番所のあった駒ヶ岳山麓の駒ノ湯近くの、坂本から始まる。坂本〜枝折大明神は標高差九百mで、延長約八km、眺望の良い所、水場など、自然と一服場が生まれ、人々の語らいの場となっていた。また、問屋場には、季節女郎までいたという。
 血と汗と涙で踏み固められ、銀鉱町と共に栄枯盛衰の歴史を刻んだ道である。

 朝の新潟駅南口は他の山行のバスやツァーのバスでとても賑やか、自分の乗るバスを間違えないように探すのがまず一仕事。私たちは19名で元気に朝の挨拶を交わしながら予定時刻に出発だ。途中栄PAで長岡のKさんを乗せ20名揃ったところで、今日のリーダーH氏の挨拶と山行の注意事項を聞く。
銀の道・説明標識 二合目目覚まし ゴルフボールの様なきのこ
 7:50、予定よりだいぶ早く”駒の湯登山口”に到着する。今日は青空で絶好の登山日和、手と口を忙しく動かしながら準備を進めた。登り始めから峠道とは思えないような急登が続く。リーダーより「急なのはこの登り始めだけだから・・」と励ましを受けみんな頑張る。
気持ち良いブナ林 デッカイ越後駒ヶ岳 大明神
 三合目楢の木あたりから気持ちの良いブナ林が多くなりみんなのおしゃべりもいっそう賑やかに聞こえてくる。紅葉には少し早いようだが足元には白や茶色や赤に近いものなど、色々なきのこが顔を出し、秋が来たのを教えてくれる 九合目日本坂は「日本中が見渡せるほどの展望」といわれる場所で、「越後駒ヶ岳」をはじめその周囲の山々がクッキリときれいに見えていた。

 10:40に明神峠に到着、”木花開耶姫命”
がまつってある大明神にお参りしお神酒を奉納、その後みんなでお神酒を一口ずつ頂く。
 集合写真を撮って枝折峠方面に下山
開始。少し下った九合目問屋場の開けたところでお待ちかねの昼食タイムとする。いくつかのグループに分かれ、持ち寄りのごちそうでゆっくり秋の山を堪能した。
問屋場で楽しい昼食 青空にススキの秋空 荒沢岳を眺めながら歩く
 下山は枝折峠に向かう。こちらの道は堀が深く少し歩きにくい、七合目焼山付近では荒沢岳が、六合目ブナ坂では銀山湖と枝折峠が良く見渡せた。三合目オリソで沢に降り林道にでる。もう一合目はすぐ近くだ。
銀山湖と枝折峠 開高健氏の碑 一合目石抱に無事到着
 13:15ついに開高健の「河は眠らない」の碑に到着だ。二分ほどで一合目石抱でバスに会い、靴を履き替えて運転手さんから熱いおしぼりを手渡され感激だ。とても気持ち良〜い!!ありがとうございます。
みんなでバスに乗り込み近くの白銀の湯で汗を流す。露天風呂からも越後駒が眺められ、今日一日の感激を新たにした。途中の道の駅で現地の野菜などをゲットしたり、もちろん飲み物も仕入れ帰りのバスは一段と賑やかだ。
 今日はほかの山行も秋晴れの一日で良かったことだろう。

予定より早く新潟駅南口に着き、リーダーや参加者のみなさんに
感謝しつつ、帰宅の電車に乗り込みました。

みなさん、お疲れ様でした、有難うございました。
                    (おわり)







(お神酒を頂き集合写真)

【開高健】
 奥只見湖をこよなく愛した作家・開高 健(かいこう たけし・代表作は河は眠らない・オーパ!など)は大の釣り好きとしても有名。 「銀山湖畔の水は水の味がし、木は木であり、雨は雨であった」と奥只見湖を表現した。
 「大物が釣れる湖」として有名だった奥只見湖の密漁等による乱獲を憂い、開高氏は「奥只見の魚を育てる会」を結成し、奥只見の魚の保護にも熱心だった。